(総集編)
↓ 見たい町をクリックして下さい ↓
| 鳥羽地区 | |
| 加茂地区 | |
| 南鳥羽地区 | |
| 離島地区 |
|
的矢湾の南に広がる浜の右端に明治33年合祀された畔蛸神社がある。その左横から千賀のほうへ通じる細い山道が原生林の中に走っている。その途中100mほど行ったところに小高い大日山と呼ばれるところがあり、宝暦5年11月家内永昌、御中安全を祈って建てられた如来石像が建てられている。昔は漁師がよくお参りをしたが、今は限られた信者がお参りする程度になり、知るひとぞ知るスポットである。 ![]() |
私のまち「畔蛸」編 no.2 南鳥羽に位置する畔蛸には古来の風習、習慣を現代まで受け継いでいる。嫁入りする嫁に対して石を投げたり、道中に石を積んだりして妨害する風習があり、その度合が大きいほど若者たちに祝われたことになり、みんなでご馳走を共に食べた。また、若い青年が死亡すると「ワサンネンブツ」といって男性4人、女性4人の合計8人の同僚が白の手甲、ぞうり、着物姿で念仏をもうす風習がある。 伊勢島や あたこの浜に来てみれば これは北条時頼の詠んだ和歌で、面白の松とは、畔蛸にある西明寺のクロマツのことである。 |
|
| ↑上へ戻る | ||
|
《石鏡の名前の由来》 昔、石鏡村の前面2キロメートル余りの所に小島があった。島は岩石の空洞になっていて、その遠望が鏡のように見えたので、石鏡の名前の由来になったと言われている。その小島は昭和34年の伊勢湾台風で崩壊してしまったという。 パールロードが開通する前には陸の孤島といわれていた素朴な漁村で、長い坂や石段が家々の間を縫っている。石鏡では、幾重もしめ飾りが飾ってある家を見かけるが、ここでは、不幸が起きなかった証として年ごとに重ねる。また、海女さんが多い事でも知られ、魚市場へ行って獲れたての海の幸を味わう事ができる。病気平癒にご利益の海辺のお薬師さまが祀られている円照寺は、高台にあるため、晴れた日には大海原の向こうに神島や伊良湖岬がくっきり浮かび上がる。 |
池上にある源五郎地蔵は別名首切り地蔵とも言われている。今から340年程前、志摩町和具の人で侠客でもあった源五郎という人がいた。その男はある事件に巻き込まれ、身替わりとして鳥羽藩の処刑場であったこの地(池上町楠木谷)で処刑された。その時、自分を拝んでくれた者には首より上のいかなる病気も直してあげようと言って死んだという。以降墓石が祀られ、毎月24日は開帳日で、伊勢方面からも信者が多い。 ![]() |
|
| ↑上へ戻る | ||
|
本町と大里の間を流れる妙慶川の下流、海に注ぐところに架けられた相橋は昔、鳥羽城へ入る堀口門のあったところである。また、この橋は北側を伊勢国、南側を志摩国としていたころ、両国が相逢う場所ということから、相橋と名づけられたと「志摩略志」などに記載されている。当時、この橋は嫁入りと葬式の時は決して通行しなかったそうだ。 |
パールロード麻生浦大橋手前の右に、「浦の権現さん」の名で親しまれている浦神社がある。昔、境内の下は海につながっていて、磯に根を張って海に突き出た「潮食い松」があった。鳥居の笠木、貫の上に石を投げて、上に乗せることができれば、願いが叶うとか叶わないとか・・・。また、権現さんの水は目に良いとされている。 |
|
| ↑上へ戻る | ||
|
加茂川と河内川が合流する辺りの丘陵にある田城は、名切にいた九鬼氏が北進の拠点のひとつとして、四代泰隆のころ築いたとされている。加茂地区は志摩に乏しい穀倉地帯であり、田城はその中心をなすという地利に恵まれ、嘉隆の鳥羽進出のための足掛かりとして、重要な拠点であった鳥羽城築城後は次第に用いられなくなったが、守隆の時、自分の病や子の夭折など度重なる不幸を、父嘉隆によって殺されたその甥の澄隆のたたりとして、冥福を祈るため、ここに社を築いた城跡は国道167号線の改修や宅地造成などのため、次第に狭められ、今は神社の境内部分を残すのみになっている。 |
私のまち「大里」編
常安寺の門前に向かって左側に、花崗岩の三日月型の石灯籠がある。これは、九鬼嘉隆の息子守隆が父の菩提をとむらうために寄進したもので、竿に「元和四年卯月四日長門守藤原守隆」の刻銘があるというが、風化して判りにくくなっている。>いかにも戦国武将らしい質実剛健さを感じさせる堂々とした風格を表している。 |
|
|
丸山の山頂近くにある庫蔵寺は、平長2(825)年、弘法大師が金剛証寺の奥の院として設立し、現在国の重要文化財に指定されている。九鬼氏が日本丸を作ったときから、船に○○丸という名前がつけられるようになり、これが日本国中に広まって、庫蔵寺は海上安全の守護としてあがめられている。また、河内を代表するものにお盆に行われる火祭りがある。古くは加茂五郷(船津、松尾、岩倉、河内、白木)で8月15日夜、共同墓地で壮大に行われたが、現在は河内、松尾の2町のみで行われている。これは朝鮮征伐に出陣した農家の次男、三男が多く戦死したので、その霊を慰めるために始められたものと伝えられている。 |
昔、九鬼嘉隆が鳥羽の地へ築城の際、何度築こうとしても三鬼神が邪魔をして、一夜のうちに石垣が崩されてしまうため困って、これを和めるために民家に下って社宮司の祷人へ米を納めてもらい、自ら祷人の仲間になり、祭祀に勤めたらその後は容易に仕事がはかどってようやく鳥羽城が完成したという。現在、大山祇神社の傍らに石を積んだ場所があるのは、三鬼神を祀った跡だといわれている。五十年程前は社の大杉の下に石を積んだところがあって、これに触れることを恐れたそうだ。 |
|
| ↑上へ戻る | ||
|
約200余年(明治時代)船津の幡神社の北西に位置する山、行者山の頂上に祭られた行者さんは、目を守ってくださる仏様として地域の人たちの信仰も厚い。行者さんのほこら石は、行者さんをお祭りするときに山の麓から人が背負い頂上まで登ったのだろうと言われている。毎年盆月の8月18日は行者さんのお祭りの日で、地域の人たちは供え物を供え、行者さんとひとときを過ごします。今はレストパークの道に寸断され面影が少ないが白瀧さんという高さ5メートル程の瀧がありここも目の神様として信仰されている。 |
鳥羽町西方のはずれ、鳥羽街道にさしかかるところの坂を焼飯坂という。昔、旅人がこの坂の上に来て、しばらく鳥羽の町並みを眺め、安堵して持ってきた焼飯をほおばったことの所以で、この名前がついたと言われている。また、大津波のあった時、皆この坂の上に逃れて、ここで飢えをしのいだからだとも言われている。 |
|
| ↑上へ戻る | ||
|
青峰山正福寺の隠居寺にある子安地蔵は、左側に「こんがら童子」右側に「せいたか童子」の脇寺を従え、あまり例のない地蔵三尊である。子授け、安産、子供の成長祈願に参拝する人が多い。同地蔵は地区のお年寄りで組織する「寄年会」が管理運営し、毎年1,8月の24日に大祭が営まれる。子供が欲しい人は参拝して人形(市松さん)をもらって帰り、本当の子供のように育てると子宝に恵まれると広く信じられている。 |
私のまち「松尾」編 no.2 昔松尾におたきという欲深いばあさんが住んでいた。ある日畑に出ていた男がふと横を見ると、弓矢を携えた白髪の老人が立っていた。老人は男にあのばあさんを射よと命じた。男は恐ろしくて断ったが、しつこく命じるのでついに矢を射た。ばあさんはそばにあった地蔵さんに身を寄せたので難を逃れたが、その老人はかきけすように消えていた。ばあさんが地蔵を見ると、その背中に矢が深く突き刺さっていた。その後ばあさんはまじめで信心深くなったという。今も松尾から岩倉に向かう国道沿いに祀られているらしい。 |
|
|
|
↑上へ戻る
|
|
|
志摩半島の最東端に位置し、石鏡とならんで海女のふるさとといわれている。海女の祖であるお弁(おべん)を祀っている海女潜女神社があり、現在も海女から厚い信仰を受けていて、お参りする海女も多い。垂仁天皇二十六年、倭姫命が伊勢神宮への御贄(みにえ)の地を探し、国崎の鎧崎に立ち寄られた際、お弁という海女さんが海に潜ってあわびを取っている所に出会い、命にあわびを献上した。これ以後、保存をよくするために熨斗あわびにして伊勢神宮に献上している。これは2100年余りも続く伝統行事で、毎年6,7,8月に作業が行われる。 |
私のまち「相差」編 南鳥羽地区一民宿・旅館の多い町・相差は観光面に積極的で、毎年日にはくじらみこしを担ぎ路地を威勢良く練り歩く、くじら祭が行なわれている。くじら祭は、くじらが漁師の網にかかり死んでしまったのを供養する目的で始まり、くじらみこしを海に返してやる事で大漁と海上安全を祈願するものである。年を追うごとに盛大になり、今では南鳥羽地区最大のイベントになっている。 |
|
|
|
↑上へ戻る | |
|
坂手島の中腹、坂手小学校の北約500メートルに、伏流水の湧き出る、160平方メートルほどの湿地があり、そこにはカキツバタが広く自生している。カキツバタは高さ70センチほどのアヤメ科の多年草で、湿地に群生する。初夏に紫や白の大きい花が咲く。この池のものは特に色が鮮明で、株分けして別の所に植えてもここのような色はでないという。坂手小学校の校章にも用いられているように、町民はアヤメを島の誇りとして保護し、手入れを続けている。 |
伊射波神社は古昔から、志摩大明神、加布良古大明神とも言われ、加布良古さんの愛称で親しまれている。加布良古の名称の由来は@伊勢国の初代国造(地方長官)の別名を加布良居命という事、A昔は渥美半島の伊良湖は、神島や答志との間まで指し、現在のイラゴを上イラゴといったが、それがなまったものなどという説がある。加布良古さんの鳥居が南方の海にむかってあるのは、昔はずっと砂浜で海浜を通って参詣できたためらしく、そのためか陸路には細い畦道まがいの道しかない。また、ご利益のある神として各地に信者を持ち、沖を通る船は必ず参拝したという。 |
|
| ↑上へ戻る | ||
|
昔から田畑も少なく漁業権も弱かったことから、学校を卒業すると男性は、海運業に従事するものが多かった。堅子と千賀の境には、日和を見た「日和山(字地蔵堂)」があり、昔は大きな松があってそれに登って海の様子や風をみたという。 |
||
| ↑上へ戻る | ||