鳥羽みなとまち文学館

みなとまち鳥羽~鳥羽港
(神坂次郎監修『紀伊半島海道図絵』コミュニカ美術出版部より引用)
 近世に入って廻船交通が盛んになるにつれて、鳥羽の港は"風待ち港""避難港"として、その重要度も増していったようである。この港の重要性は幕府も認めて、菅島に「御篝堂」、神島に「御燈明堂」を公設して夜間航行の安全を図ってきたほどである。全国の港を番付にした『諸国湊道の里附』には"志州鳥羽"は、西の大関"肥前長崎"に次ぐ関脇としてその名が上げられている。
 近世の初期から陸上交通では「旅人改め」が行われたのと同様に、回船に於いても船が港に入って滞在したときは、村役人や船問屋などが船毎に宗門を改め、出港地、出港日、入港日、出帆日、積荷、船籍、船主船頭、乗組員数等を調べ、「諸廻船改帳」や「廻船控帳」を作成することが義務付けられていた。
(鳥羽市立図書館蔵「鳥羽城図」部分)
 長崎~大阪~江戸を結ぶ物流の大動脈ともいえるこの海道は、屈強の船乗り達にさえ「伊勢の神崎国崎の鎧、波切・大王がなけりゃよい」とまで言わせた海の難所である。安楽島・坂手島・菅島・答志島という天然の大防波堤に囲まれた鳥羽の港は、わが国屈指の良港であり、遠州灘や熊野灘を超えた船乗り達が鳥羽の港が見えたとき、どれほど安堵の胸をなで下ろしたかは想像に難くない。同時に、鳥羽の港に入れずに命を落とした人々も数え切れないはずである。その事実を示す遭難記録「難船文書」は、今も小浜、桃取、答志、浦村、石鏡をはじめ志摩から熊野灘一帯に数多く保存されている。
しかしながら、その「鳥羽港」の実情はあまり広くは世に知られていない。それは、港や回船交通の歴史を探る上で欠かせない「諸廻船改帳」や「廻船控帳」等の回船関係文書が鳥羽港においては皆無に等しい状態にあるからである。百数十年の間、いつ、どこで、どのようにしてこれらの史料が散逸してしまってのか、それとも未だ発見されず何処かにひっそりと眠っているのかは明らかではないが、私たちの諸先人が歩んできた足跡すらたどれないのは如何にも残念である。また、同時にこのことは史料の保存が如何に大切かを私たちに教えてくれている。
(参考文献・中田四朗著「三重県下に残る諸回船改帳-近世の廻船交通と県下沿岸」『海と人間 №21』)
(神坂次郎監修『紀伊半島 海道図絵』コミュニカ美術出版部)
 当時の回船交通を知る史料の一つに『紀伊半島 海道図絵』や『増補日本汐路之記』がある。この『図絵』は、平成16年に神坂次郎氏が監修し、コミュニカ美術出版部から発行されたものがあるが、この本の前書きによれば、「・・(前略)この絵巻は上下二巻、天地27センチメートル、全長23メートル。時代は寛政(1790年代)か、それより少し以前。題簽(だいせん)が欠落しているが、絵巻は金粉銀粉を散らした豪華な物で、石山(大阪城)を背景に宇治川口からスタートし住吉、堺、泉南と南下し、紀伊半島の潮岬を一周し志摩、伊勢へと展開していく・・(後略)」とある。
(『増補日本汐路之記』)
この絵巻は、海から陸地を眺めたもので、大阪から現在の遠州灘(渥美半島付近)までが描かれている。鳥羽は稲垣摂津守様御城下として、青ノ峯、スゲ嵜(崎)、ヲサツ(相差)、カブラ嵜(加布良古崎)、菅嶌(菅島)、小濱、モゝトリ(桃取)、飛島、神嶌(神島)と共に描かれ、鳥羽城の本丸(神坂次郎監修 コミュニカ美術出版部 平成16年発行)や、菅島の燈明堂らしきものの記載も見られる。
 また、同書の別冊となっている『増補日本汐路之記』は、明和7年に島田政度が編述し、大阪高麗橋・浅野弥兵衛等を出版元として刊行されたものであるが、江戸時代の、航海案内の代表的なもので、当時の船乗りの必携の一冊と言われる。摂津国の灘(兵庫)から紀伊半島を回り、志州鳥羽を経て伊豆から江の島、相州浦賀から武州品川(江戸)までの海路と港の案内記である。鳥羽港は、「稲垣対馬守殿御城下、知行三万石。上々の大港にて、この港より豆州下田ま迄七十五里の渡り・・(中略)・・諸回船この港にて順風をまつ・・(後略)」とある。
 

鳥羽の町並みと商業施設(船宿)
(志摩国鳥羽町全景絵葉書 個人蔵)
 鳥羽の町は、九鬼嘉隆が鳥羽城を築いた文禄年間(1590年代)に町並みの現形が出来たと言える。その後、城主は内藤氏~土井氏~松平(乗邑)氏~板倉氏~松平(光滋)~稲垣氏と変遷しながら、鳥羽藩の城下町としてまた海上交通の要所・港町として栄えてきた。
 内藤氏時代、延宝八年(1680年)頃の「鳥羽城図」を見ると、安楽島と菅島の間に"上方舩道"、坂手島と小嶋の間に"江戸舩道"と記されており、熊野灘から安楽島の加布良古(かぶらこ)崎を回って鳥羽港に寄港し、菅島と答志島の間を通って遠州灘から江戸へと出帆していった当時の海路が偲ばれる。
 寄港した人々や、それを持てなす人々で賑わったであろう鳥羽の町は、現在の岩崎町界隈に武家屋敷が、本町・大里・横町・中ノ郷・藤の郷界隈に町屋が配置されている。道路の位置や街の区割りも、明治に入って埋め立てられた鳥羽城の堀や蓮池の周辺を除けば、ほとんど現在の町並みと変わっていない。また、港に着いた積み荷を運び込む水路として利用されたの か、鳥羽港と直接つながる鳥羽城の堀の大里近くには"舩入"という記載も見られる。
(明治~大正期 鳥羽町市街 日報連鳥羽分会)
 西村家が土蔵を新築する嘉永4年(1851)の前年、嘉永3年(1850)の「鳥羽町五人組名前帳」によると、鳥羽には下表のように船問屋、船宿、小船宿が店を構えていたようである。
 また、江戸期も終わりに近い安政4年(1857)の、岩崎・本町・大里・横町・錦町・中之郷・藤之郷・奥谷・赤崎の9町からなる旧鳥羽町は、892世帯、3,873人の街であった。西村家が店舗を構える大里は、残念ながら大正14年の数字しか見あたらないが、253世帯、733人と世帯数では最も多い。この頃には鳥羽町での宿泊・誘客人員は10万人を超えており、入港した船舶の乗組員や鳥羽の町に宿泊した人々が行き交う賑やかな界隈だったようである。扇屋酒店は、近隣庶民の台所を支えるのと同時に、このような宿泊施設や飲食店も商いの得意先であったと思われる。
(明治~大正 東洋水産水産缶詰会社及び鳥羽港 個人蔵)
(明治~大正 造船場より岩崎停車場付近を望む 個人蔵)
(明治~大正 志州鳥羽港 個人蔵)
(明治~大正 志摩国鳥羽日涉園より鳥羽港内を望む 個人蔵)

 

商工業の発展と街の拡大
(明治23年志摩国鳥羽港日和山眺望真景・石版画 図書館蔵)
 明治に入って商工業が発達しはじめると、鳥羽の街は公有水面を埋め立てる事で街の拡大を図ってきた。明治11年に東京で造船業を営む福沢辰蔵が造船場を開設して支店とし、旧鳥羽城の一部を造成してドックを造ったのを始め、明治40年代には鉄道敷設のため佐田浜の埋立が、大正10年代には中之郷海岸の埋立が、昭和10年代には現在の伊勢湾フェリー周辺の鳥羽港修築工事が、昭和30年代には現在の国道が走る中の郷地域の埋立工事が、そして昭和40年代に入って佐田浜港の埋立工事が行われて現在に至っている。
 急峻な山の裾野に帯のように伸びる特異な地形の鳥羽では、まちの海岸線部分は時代と共に大きく変化をし続けてきたが、逆に山麓の旧市街部分は江戸時代の区割りをそのまま残し今に引き継いでいる。特に扇屋酒店がある大里・本町・横町界隈は江戸期の地図と照らしてもほとんど変化は見られない。当時の面影を今に残す町並みである。
(大正期 鳥羽市街航空写真 図書館蔵)
(昭和20年代 鳥羽町市街地航空写真 日本地図センター蔵)
(昭和30年代 鳥羽市市街地航空写真 日本地図センター蔵)
(昭和50年代 鳥羽市市街地航空写真 日本地図センター蔵)

 

明治~大正期 鳥羽港に 入港していた船舶

 

寛永年間~昭和30年 鳥羽郷土史年表
西暦 元 号 事               項
1800 寛政12 神島漁船121人が遭難死亡。漁師の集団的な海難死として例をみない悲劇となった
1801 享和元 ○南京船、遠州より中之郷へ着船
○鳥羽藩の財政補塡策としての国産買上げ仕法始まる
1805 文化2 伊能忠敬、鳥羽領の測量にとりかかる(『伊能忠敬測量日記』)
1813 文化10 白取湊より江戸下りの大名蔵及び雑貨積みこみの九人乗の回船が石鏡沖にて遭難
1816 文化13 江戸屋敷類焼
1819 文政2 稲垣長剛家督を継ぐ。病身のため祖父の長以が後見する
1822 文政5 日和山に方位石が建てられる。
- (文政年間) 稲垣長剛、藩校尚志館を城内二之丸地続の場所に設ける
1837 天保8 天保の大飢饉により多くの死者がで出る。鳥羽五町で300人、坂手等は400人とある
1838 天保9 稲垣長剛、鳥羽城を修理する
1841 天保12 鳥羽藩の財政困難打開のため、佐藤信淵が財政改革論『鳥羽領経緯記』を発表。この年より5ヶ年間、 各村は寄合を開いて倹約取締り執法を定める。また弘化4年まで、第一次日掛講を命じ、領内の15~ 60歳の男子に強制的に一人1日1文宛の現金を積み立てさせる
1842 天保13 稲垣長剛が隠居し、稲垣長明が家督を継ぐ
1846 弘化3 鳥羽藩、第二次日掛講を命じ、財政の立て直しをはかる
1848 嘉永元 坂手村に疫病が流行する。死者53名
1849 嘉永2 稲垣長明、伊勢両宮正遷宮の警固を仰せ付けられる
1851 嘉永4年 6代目西村陣七、土蔵を新築する
1853 嘉永6 竹川竹斎、『海防護国論』を著す
1854 安政元 ○安楽島村で大火事がある。全焼78戸、村の3分の2を焼失する
○安政地震がおこる。津波など鳥羽全域で被害甚大。鳥羽城の高塀も残らず破れる
1855 安政2 夜四つ時頃地震、江戸では大地震大出火
1857 安政4 琉球人の小舟が漂着し、ねんごろにもてなす
1858 安政5 ○鳥羽町大火。明七つ過ぎ大里町半田屋より出火。140~150戸焼失する
○御木本幸吉が鳥羽で代々続くうどん屋「阿波幸」の長男として大里町で生まれる
1859 安政6 答志の神祭芝居見物帰りに、菅島の28人遭難死する
1860 万延元年 稲垣長明、外桜田御門番を仰せ付けられる
1864 元治元 稲垣長明、長州征伐において幕府軍に参加
1865 慶応元 稲垣長明、長州征伐進発につき、旗本左右御備を仰せ付けられる
1866 慶応2 稲垣長明が没し、稲垣長行が家督を継ぐ
1868 慶応4 鳥羽伏見の戦。幕府が敗れ、鳥羽藩兵は大坂表を引払い、大和越にて鳥羽に戻る。家来山本唯右衛門、門野豊右衛門等が京都へ歎願に出たが、関門を通行出来ず。亀山藩を通じ、東海道鎮撫使(総督)橋本少将に歎願書を提出し謝罪したが、沙汰あるまで国元に引取るよう達しがでる。その後、稲垣長行、参内し罪を許さる。稲垣長行は隠居し、弟長敬が家督を継ぐ。
1869 明治2 ○稲垣長敬・版籍奉還を願い出る。稲垣長敬、鳥羽藩知事に任ぜられ、従来通り志摩全国と、伊勢度会、多気、飯野三郡の長官となり、鳥羽城内に藩庁を置く
○近藤真琴が明治政府の海軍操練所を申しつけられる。12月元一橋下屋敷内に攻玉塾を開校する
1870 明治3 ○樽船70艘が鳥羽港に入港する。本町・大里町をはじめ全町賑う。また、英国軍艦が的矢に入港し、乗組員は 松尾、菅島で鹿狩りや日和山、二見浦を見物する
○鳥羽藩庁内を公務局と政務局の二局に分け、藩学校内には小学校を置く。
○この年は、志摩国を大風雨や高潮が襲い、田畑は荒れ、家屋の流出、死者が多数出る
1871 明治4 ○廃藩置県。鳥羽藩を廃して鳥羽県を置く。戸籍区の配置が布達され、旧武士の居住地を二区に、答志・英虞郡の村々を10区に分ける。11月には鳥羽県が廃止され度会県に合併される。また、鳥羽郵便役所 をもこの年に置かれた
○養蚕奨励のため、鳥羽藩は上野国七日市(現群馬県富岡市)から養蚕教師を招き伝習を行う
1872 明治5 ○鳥羽藩銀札の一部が引替打切りとなる
○鳥羽町有志者が常安寺の学寮を借りうけ、私学「日新塾」を開校する
○明治天皇、軍艦「龍驤」にて、鳥羽港へ入港する
○この年、地券の交付(壬申地券)と、宗門人別帳にかわる戸籍記録が行われた(壬申戸籍)
1873 明治6 ○日新塾を廃止し、鳥羽連合小学校が創設され、大里学校(現鳥羽小学校)と名ずける
○鳥羽郵船会社が創設され、月2回鳥羽~品川間の周航を開始する。また、明治政府が招いた灯台建築技術者R.H.ブラントンによって建築されたレンガ造りの様式灯台「菅島灯台」が点灯する
1875 明治8 ○鳥羽郵便役所が鳥羽郵便局と改称され、内国郵便為替が取り扱われる
○銀札の引替が行われる。
○鳥羽元丸ノ内と岩崎町を合併して錦町と改称する
○旧鳥羽城の二ノ丸・三ノ丸を土族に払い下げる(本丸は官地)
○英国軍艦シルバー号が鳥羽港に入港する
1876 明治9 ○藤田米蔵らにより、鳥羽城の堀の埋立が行われる
○地租改正反対の農民騒動「伊勢暴動」が起こる。鳥羽では常安寺の戸長宅に詰め警戒に当たる
1877 明治10 ○治天皇が軍艦「高尾」で横浜から神戸に向かう途中、暴風雨にあい、佐田浜沖へ入港する。錦町字唐入門の桟橋より上陸し常安寺に宿泊する
○三重県内物産博覧会が津公園で開催され、鳥羽地域からも答志村の乾淡菜(イガイを煮て干した物)などが出展される
○山田警察署鳥羽分署が置かれる
7代目陣七が隠居し8代目陣七が家督を継ぐ。家督相続に伴う「酒販売免許の書換」を申請する。
1878 明治11 ○東京から参宮客が押し寄せ伊勢古市は大繁昌となる。鳥羽からも多数の出稼者が出る。
○東京の福沢辰蔵が鳥羽に造船場を開設する
○鳥羽出身の栗原亮一が、板垣退助等と自由民権運動にたつ
1879 明治12 ○答志英虞郡役所が鳥羽町におかれる。また、第1回県会議員選挙に答志郡から山本如水・西岡拾蔵が当選し、山本如水が初代議長に選任される
○コレラが流行。県下の死者115人、鳥羽では岩崎と焼飯坂に検疫所を設ける
○山田警察署鳥羽分署が鳥羽警察署として独立。鳥羽町錦町宮瀬方を仮庁舎とする
8代目陣七、「酒類の卸売り鑑札願」、「売薬請売願」を提出する
1880 明治13 ○近藤真琴、航海測量習練所を東京の芝神明町に移して「商船黌」と改称する
○西洋式帆船「商行丸」が石鏡沖で座礁。自力で離礁して鳥羽に入港する
1881 明治14 近藤真琴が鳥羽町藤之郷赤崎に「攻玉社分校・鳥羽商船黌」を開校する
1882 明治15 鳥羽電信分局設置。電信事務が開始される
9代目西村陣七が生まれる
1883 明治16 鳥羽町の三校が合併し、鳥羽学校と改称。大里学校を本校とし、藤之郷、中之郷を分校とるす。また、答志・英虞郡役所の新庁舎を錦町に建設し、常安寺の仮役所を移転する
1884 明治17 伊藤書店が開業する
1885 明治18 ○明治15年の「人力車取締規則」、「馬車取締規則」が廃止され、「駅伝営業取締規則」が布達される。これにより駅伝営業人組合の設置が義務づけられ答志英虞郡の取締所は鳥羽町にもうけられる
○暴風雨のため鳥羽港内で一〇〇〇石積日本形船が破船。他に小舟一二艘が破船する
1886 明治19 ○日本形船「鶴寿丸」が鳥羽沖で暴風に会い破船。また、八丈島へ向う途中で破船した五〇石積日本型船が坂手島に漂着する。
○答志英虞郡役所内に登記所が置かれ、登記事務が開始される
○コレラが流行。鳥羽町で21人、小浜村で25人など91人が罹患し、内79人が死亡する
○「志摩国鰹節営業者組合」、「志摩国海参営業者組合」、「鳥羽漁業組合」などが相次ぎ組織される
1887 明治20 ○軍艦「海門」坂手村の白石に乗り揚げる。また、軍艦「浪速」が鯛の島に座礁し浸水する
○鳥羽街道(二見-鳥羽)が突貫工事で開通する
○鳥羽町に鳥羽警察署新庁舎が完成する
1888 明治21 ○かつお漁船が菅島沖で転覆。乗組員18名溺死。4名が菅島に上陸する
○山田裁判所鳥羽出張所が錦町に設置される(安濃津治審裁判所鳥羽登記所を改称)
○第2回全国水産品評会が東京で開催される。志摩国海産物改良組合(代表・御木本幸吉)が「改良海参」、「真珠」を出品。2等賞を受賞する
1889 明治22 ○大日本帝国憲法の公布を祝って、鳥羽町では本町・八百万楼を会場に祝辞朗読演説会が催される
○日本形船「幸宝丸」(三五六石積)が石炭一五万斤を積載して国崎鎧崎で座礁し、石鏡村沖で沈没。また、「川徳丸」(乗組員六名)が桃取村字ケナシで座礁破砕。
○鳥羽造船所が鳥羽鉄工所と改称される
○市制町村制が施行され、鳥羽町、堅神村、小浜村が合併して鳥羽町となる
1890 明治23 ○西洋形帆船(四〇〇屯積、乗組員二一名)が飛島の沖一海里で暗礁に乗りあげ浸水、乗組員は鳥羽・熱田間回航「運貨丸」に救助される
鳥羽電信局を、鳥羽郵便電信局と改称する
1891 明治24 藤田常弥、奥谷に牛舎を設け、牛乳販売を始める
1893 明治26 御木本幸吉、鳥羽浦相島で実験中の施術貝から半円真珠を発見、施術養殖真珠第1号となる
1895 明治28 コレラ流行。鳥羽・答志・的矢、波切・片田の各町村で患者51名、死者35名
1896 明治29 ○御木本幸吉の真珠素質被着法(半円真珠)の特許権が許可される
○山田銀行鳥羽支店が設立される
○ 三重銀行(鳥羽)支店が設置される
1897 明治30 ○株式会社鳥羽商会(石灰売買業)が鳥羽町に創業される
○鳥羽に海務署が設置される
○暴風雨により船舶が多数遭難。死者も出る
1898 明治31 ○御木本幸吉が銀座に真珠店を開業する。
○三重県遠洋漁業株式会社が鳥羽町に創業される。西洋型帆船で鮪、鰹、鰤などの操業を開始する
○鳥羽町立鳥羽商船学校が設置される
1900 明治33 ○合資会社志摩魚問屋が鳥羽町で創業する
○大阪商船による鳥羽-熱田線の運航が開始される
○娼妓の外出が禁止される〔ハシリガネが差し止められる〕
○御木本幸吉がパリ万博に半円真珠を出品する
1901 明治34 九鬼隆輝(旧三田藩主)が答志の九鬼嘉隆墓を修理し、鳥羽常安寺で300年祭を執行する
1902 明治35 鳥羽で那須写真館が開業(志摩写真店第1号)する
1903 明治36 緒明菊三郎(東京)が鳥羽赤崎の対岸安楽島の埋立に着手する
1904 明治37 ○野幾之進が千代田生命保険相互会社を創立し、社長に就任する
○セントルイス博覧会に出品を兼ねて、御木本幸吉が斎藤等を市場調査に派遣する
1905 明治38 ○志摩郡水産組合が設立される
○錦座、鳥羽扇座が全焼する
8代目陣七、「煙草小売り指定人」の指定を受ける
1906 明治39 ○内外地向けの缶詰など水産物製造を目的とした東洋水産株式会社が創立される
○東京銀座に御木本真珠店の洋館が新築され、営業が開始される
1907 明治40 ○鳥羽「錦浦館」が新築される
○東京京橋に御木本金細工工場が創設される
1908 明治41 ○御木本幸吉の真円真珠特許権(特許第13673号)が許可される
○鳥羽自益谷に扇座が再建される。こけら落しに板東蓑助が来演する
○鳥羽「長門館」が新築される
1909 明治42 ○鳥羽町中之郷に百五銀行鳥羽支店が設立される
○合資会社鳥羽造船所による鳥羽-蒲郡間の定期航路が開設される
○参宮線・山田-鳥羽間の鉄道工事に着工する
○鳥羽造船所による一般家庭への電力供給が始められる
8代目陣七が隠居し9代目陣七が家督を継ぐ
1910 明治43 ○鳥羽郵便局で電話交換業務開始が開始される
○神島燈台が点燈する
○鳥羽自益谷に玉突場が開設される
1911 明治44 ○鳥羽町錦町に伊勢新聞社鳥羽支局が開設される
○鳥羽町立鳥羽女子技芸学校が創立され、鳥羽町役場前建物において開校する
○坂手村で赤痢発生、同年中に114名が死亡する
○国有鉄道・参宮線山田-鳥羽間の鉄道が開通する
○相差の八正道沖で駆逐艦「春雨」が遭難し四五名が殉職。長岡住民等は決死的な救難作業にあたる
○鳥羽にゴム輪を使った人力車が現われる
扇屋酒店、特設電話加入の認可を受ける。電話加入申込登記・第五十五番
1912 明治45 ○航海の安全を図る鳥羽導灯"低灯"が日和山山麓に建設される。明年3月"高灯"を建設
○三重沃製造株式会社が鳥羽町に設立される
○経済不況により合資会社鳥羽造船所が休業となる
○鳥羽赤崎に「待月樓」が新築される
○加茂村大字安楽島で赤痢が発生する。患者数50人
9代目陣七、「鳥羽停車場の出店営業許可」を西武鉄道より受ける。
1913 大正2 ○鳥羽町工業会が発足する。会員68名、会長須藤富八郎
○英国ニューボンドストリートに御木本真珠店ロンドン支店が開設される
○南極探検隊図南丸、菅島灯台下で坐礁
○鳥羽町に遊覧船組合が設置される
○神島で赤痢が発生する。患者数35人
1914 大正3 ○明治45年7月に起工した五知峠開削工事が完工する
○TYK式無線電話鳥羽局が完成。鳥羽~答志~神島間で世界初の無線電話の実用化が開始される
1915 大正4 株式会社戊申貯蔵銀行鳥羽代理店が設立される
1916 大正5 ○鳥羽造船所が鈴木商店(神戸)の経営下に移り、株式会社鳥羽造船所と改称される
○中国南京路に御木本真珠店上海支店が開設される
○株式会社鳥羽魚商会が設立される
1917 大正6 ○鳥羽錦町から出火、中之郷に延焼、警察署など184戸を焼失する
○東洋遊園地株式会社が設立される
1918 大正7 ○株式会社鳥羽造船所が株式会社帝国汽船造船部鳥羽造船工場と改称される
○農工銀行(鳥羽)支店が開設される
1919 大正8 ○志摩自動車会社が設立され、鳥羽-鵜方間の乗合自動車が運行される
○日東製氷鳥羽工場が設置される
○御木本幸吉が「全巻式」の特許権を取得。養殖真円真珠をロンドン支店で売り出す
1921 大正10 ○帝国汽船株式会社の経営下にあった鳥羽造船工場が神戸製鋼所鳥羽電機工場(電気部門)となる
○民間航空水上機「参宮号」浜名湖-鳥羽(小浜に着水)間の運行が開始される
○鳥羽-蒲郡間の汽船運行が始まる
○鳥羽町堅神、小浜に電灯が引かれる
9代目西村陣七、町会議員に選出され、3期を務める。
1923 大正12 ○鳥羽港が指定港湾となる(内務省告示第276号)
○志州電気鉄道の計画趣意書が出される
○鳥羽遊覧船組合を鳥羽遊覧株式会社に改組する。
○中之郷海岸の埋立が行われる
○株式会社鳥羽仲買魚問屋が開業する
1924 大正13 ○海軍特務艦「旭」が答志沖で坐礁する
○鳥羽婦人会、鳥羽青年修養会が組織される
1925 大正14 ○鳥羽上水道が完成し水源地において通水式が行なわれる
○志州電気鉄道株式会社の創立事務所が鳥羽町役場に置かれる
○日系米国市民日本見学団14名鳥羽を訪れ、日和山、及び答志村にて海女の作業を見学する
○鳥羽町でチブス大流行につき隔離病棟が設けられる。入舎患者五一名、内死亡九名
○鳥羽町に製氷会社が設立される
1926 大正15 ○鳥羽駅の改築工事が行われ新駅舎が完成する
○志摩電気鉄道株式会社が設立される
○鳥羽-東京間の直通列車が運転を始める
○鳥羽-鵜方間の志摩乗合自動車が浜島に乗りいれる
○勢南銀行鳥羽支店が開設される
○米国フィラデルフィア万国博覧会に「御木本五重塔」が出展される
○鳥羽町立鳥羽女子技芸学校が鳥羽町立技芸女学校と改称される
○各字町青年団体や鳥羽青年会との新睦と連携を目的とした「錦港倶楽部」が創立される
1927 昭和2 ○真珠湾交運株式会社が設立される。自動車運輸及び鳥羽湾の遊覧事業を開始する
○神戸製鋼所の経営下にあった鳥羽造船工場が播磨造船工場(現石川島播磨重工業播磨造船所)に吸収合併され、電機部門は神戸製鋼所電気部電機工場と改称される
○米国ニューヨーク五番街に御木本真珠ニューヨーク支店が開設される
○戦鑑長門、陸奥他第一艦隊鳥羽港外に在泊。一般観覧が許可される
○大阪毎日新聞・東京日日新聞共催の日本百景に鳥羽湾が選ばれる
1928 昭和3 ○八景講を発展的に改組し「鳥羽保勝会」を設立する。会長は歴代町長
○鳥羽町立技芸女学校を廃し、鳥羽町立実科高等女学校を創立する。
1929 昭和4 ○大阪商船株式会社の大阪-名古屋航路が摂陽商船会社に継承され、鳥羽港に寄港する
○志摩通運会社が設立され、本店を鳥羽に支店を賢島に置く
○志摩電気鉄道による鳥羽~真珠港間(賢島)の25kmが開通する
○県下で初めての鉄筋校舎「鳥羽尋常高等小学校」が鳥羽城跡に完成する
1930 昭和5 鳥羽港修築期成同盟会が結成される
1931 昭和6 ○御木本真珠店ロスアンゼルス支店が開設される。御木本隆三が日比谷に"ラスキン協会"を設立
1932 昭和7 ○日和山エレベーター株式会社の創立され、起工式が行われる
○東京湾汽船による蒲郡~伊勢・鳥羽航路が開設される
○御木本真珠米国シカゴ支店が開設される
○鳥羽町本町から出火。賀多神社附近まで民家14戸あまりを類焼する
1934 昭和9 ○東海空輸飛行機着水場の件で小浜・鳥羽両漁業組合の代表者会議が開催される
○鳥羽町の中村浅平が鉄道の活漁車を使用し、兵庫へ海産漁の輸送をはじめる(主にフグ)
○特務艦「室戸」入港。また、軍艦「伊勢」入港し乗船者3千余名が鳥羽町に上陸。
○室戸台風が上陸する。鳥羽で全壊家屋5戸
○保証責任鳥羽信用組合の創立総会が開かれ、事業が開始される
○日和山エレベーターが完成。 廣楽園と日和山をつなぎ遊園地とする
1935 昭和10 ○軍艦「春日」入港、また第四鑑隊も伊勢湾に入港する
○漁業道徳の振興、漁場愛護を目的とした大日本水族愛護同盟会が鳥羽町に設立される
○相橋架換工事が完了する
○東洋遊園地株式会社の樋ノ山遊園地が鳥羽町遊園地として一般に公開される
○鳥羽観光案内所が設置される
1936 昭和11 ○鳥羽港の修築が完成。竣工式が行われる
○真珠湾交通株式会社が志摩通運より浜島-鳥羽航路の営業を譲受する
○戦時下の情報統制で、鳥羽町及び付近一帯の空中・高所からの撮影が禁止される
○鳥羽港振興会が組織される
1937 昭和12 ○鳥羽保勝会を鳥羽観光協会と改称する。"観光祭・港まつり"が 開催される
○志摩機械工業組合設立。鳥羽町役場で創立総会を開催
○鳥羽水族館が開館。竣工開館式が挙行される
○御木本真珠サンフランシスコ支店が開設される
○皇太后(貞明皇后)が鳥羽に行啓のため、真珠島まで浮橋を設置する
○鳥羽町民大会開催。日中戦争に対し「挙国一致の奉公」「銃後の任務」の宣言及び決議を行う。また、「南京陥落」祝賀の提灯行列が鳥羽町で盛大に行われる
1938 昭和13 ○愛知商船株式会社の神風丸による蒲郡~篠島~師崎~二見~鳥羽航路が就航する
○イタリア政府派遣訪日親善使節団が鳥羽を訪問。歓迎送を行う
1939 昭和14 ○鳥羽町呉服組合が宇治山田呉服商業組合に、大工指物職は宇治山田建築業組合に加入。米穀商は米穀商業組合を独自に組織し、それぞれ統制品の配給を受けることとなる
○鳥羽町警防団が結成される。消防組織が警防団に再編成され、従来の消防活動以外に空襲警報、灯火管制等も分担することになる。
○米国ニューヨーク万国博覧会に御木本真珠店が"自由の鐘"を出展する
○「銃後奉公会」、「鳥羽町防諜団」が組織される
○第一次防空訓練開始について、家庭防空組合長会を鳥羽幼稚園で開催する
○軍艦「最上」、其の他潜水艇入港する
1940 昭和15 ○第四水雷戦隊入港。4日間鳥羽町内に滞在。また、鳥羽小学校講堂で鈴鹿陸軍航空隊、伊藤海軍大尉の防空に関する講演会が開催される
○朝日座で銃後奉公会、在郷軍人分会、国防婦人会共催の銃後遺家族慰安会が開催される
○贅沢品の製造販売禁止令により真珠養殖事業が禁止される
○県道宇治山田鳥羽線が(五十鈴川汐合橋~二見~鳥羽~波切街道)竣工する
○昭和自動車有限会社(現在の三交タクシー株式会社)が創立する
1941 昭和16 ○大阪電気軌道と参宮急行電鉄が合併して関西急行電気鉄道株式会社となる
○関急、志摩電、志摩航運による「志摩ハイキング黒潮クーポン券」が発売される
○商船学校の生徒は宣戦布告の詔書にさいし、銃剣をもち大山祗神社で戦勝祈願行進を行う
1942 昭和17 ○国立公園の指定に向けて「志摩国立公園期成同盟会」が発足する。
○衣料切符制が実施され、食糧管理法が公布される
○戦時下の低物価政策を維持するための水産製造検査所が鳥羽町に設置される。
○鳥羽町に伊勢防備隊が設置される
○鳥羽町と坂手村が合併
1943 昭和18 ○日和山エレベーター株式会社が電力消費規制により営業を休止する
○真珠湾交通株式会社が自動車運輸事業を三重乗合自動車株式会社に移管させる
1944 昭和19 ○真珠湾交通株式会社と鳥羽湾交通株式会社が合併し、志摩航運株式会社となる
○志摩電気鉄道、三重乗合自動車など6社が合併して三重交通株式会社が設立される 
○関西急行電気鉄道株式会社が近畿日本鉄道株式会社と社名を変更する
○東南海大地震が発生する。マグニチュード7.9
○鳥羽国民学校は、運動場の半分等を決戦畑として開墾。校地内に防空壕を作る
1945 昭和20 ○第一五三師団<護京師団>が編成され、歩兵第四四三連隊の本部が常安寺に置かれる
○鳥羽町立高等女学校が火災のため全焼する。
○横須賀鎮守府所属第四特戦隊(海軍)司令部が鳥羽に置かれる
○御木本幸吉、終戦と同時に真珠養殖・真珠加工を多徳島で開始する
1946 昭和21 ○戦時のため運休していた志摩海運株式会社による鳥羽~安乗間の運航が再開される。また、山田~二見、二見~鳥羽間の三交バスも運転が再開された
○江戸時代からの老舗旅館「戸田家」が、鳥羽佐田浜に「戸田家旅館鳥羽別館」を開業する
○戦後第1号の国立公園として「伊勢志摩国立公園」が指定される
○南海道大地震発生。鳥羽の津波の波高は1・2メートルになる
1947 昭和22 ○休止中の日和山エレベーターが営業を再開する
○財団法人伊勢志摩国立公園協会が設立される
○御木本隆三が鳥羽ラスキン学園を創立する
1948 昭和23 ○伊勢市倉田山で"平和博覧会"が開催され、伊勢志摩国立公園一周観光バスが運行される
○鳥羽町に自治体警察発足。鳥羽署は国家地方警察の志摩地区署と改められ町警以外の町村を管轄する
○鳥羽高等女学校が廃止され、三重県鳥羽高等学校(鳥羽町立)が創立される
○愛知商船株式会社の朝汐丸が、名古屋~鳥羽~蒲郡航路に就航する
1949 昭和24 ○東宝教育映画製作所が国立公園伊勢志摩の教育映画製作に着手。宇治山田市で試写会を開催
○二省分離(郵政省、電気通信省)により鳥羽電報電話局と鳥羽郵便局に分割される
○御木本真珠株式会社の設立総会が開かれる
○国道167号線の宇治山田~鳥羽間「二見トンネル」が開通する
1950 昭和25 ○鳥羽みなと祭「パールカーニバル」が開催され、鳥羽十景が選定される
○答志沖で漁船とデンマーク船が衝突転覆。乗船者の親子3名が死亡
1951 昭和26 ○志摩航運株式会社が志摩観光汽船株式会社に社名を変更する
○東宝映画「青い真珠」のロケが鳥羽志摩全域で行われ、近鉄、三交志摩航運は、ロケ地を一周する「青い真珠号」を運航する。志摩観光ホテルが開業する
○鳥羽が「国際観光ホテル整備法」による登録を受ける
1952 昭和27 ○志摩線鳥羽-賢島間に急行電車が運行される。また、三重交通による伊勢志摩国立公園定期観光バスが運航される。
○御木本真珠島にフランス大使、オランダ大使など各国要人の来島が始まる
1953 昭和28 ○東京~鳥羽間の国鉄直通急行列車「伊勢号」が復活する
○御木本真珠島に皇太子殿下が来島する。
○台風13号鳥羽付近通過、志摩の海岸堤防、各所で決壊、鳥羽町に災害救助法発令
1954 昭和29 ○"お伊勢博覧会"が伊勢市で開催される。会期二ヶ月の入場者は四十五万人。
○1町7ヶ村が合併し、鳥羽市となる。市長職務執行者に家田綱吉氏が選ばれる
○御木本幸吉翁が逝去する
1955 昭和30 ○合資会社丸幸商店による鳥羽水族館が開館する。
○鳥羽の鉄工業組合、商業会、観光協会の三団体によって鳥羽商工会が設立される

 

鳥羽みなとまち文学館

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